ヒ ス ト リ ア 鎭 雄 記【第 六 段】
少 年 期
上海公園にて 昭和19〜20年頃
兄と “ 上海市第五国民学校 ” 在学中。勿論日本人の学校で市内には少なくとも五校以上は有りましたネ。
徒歩で登校していた。学校で『警戒警報』で『防空壕』に入った事も有りました。しかし上海が攻撃を受ける事は無かったと思います。子供達は『空襲警報』の中空を覗いたりしていた。
緊迫感等全く無かった様に記憶しています。
いつも米軍爆撃機は高空を飛行して日本へ向っていた様で、日本軍の『高射砲』は撃っても弾が届かなかった様でした ( 大人の話 ) 。校門には守衛が、而もターバンを巻いた印度人でしたネ。
被っている帽子は戦闘帽ですョ。当時のの少年達は「大人になったら兵隊さんになって、戦争に行くんだ!」と無邪気なものでしたネ。
この近くに米軍のB24が墜落してその残骸を見に行った記憶があります。
市内中心部『四川路 ( シセンロ ) 』へは、路面電車 ( 2両編成で前が緑色の電動車で後が白色の付随車で日本人は前に乗る ) を利用したのではないかナ。映画を見たりデパート「白木屋」か?でアイスクリームを食べた記憶もあります。
フランス租界に行った記憶も、姉が日本領事館でお茶汲みをやっていた事も、領事館の窓から黄浦江対岸の景色を見た記憶も断片的に思い出します。
♫ みんなで がっこう うれしいな こくみんがっこう いちねんせい と歌ったのを、かすかに覚えていますョ。
国語の教科書は今と違い、カタカナを初めに覚えたから「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」でしたかナ。70年以上も昔の話ですョ。
戦中は上海でも『灯火管制』『警戒警報』『空襲警報』『防空壕』こんな言葉は有りました。
イヤですね年寄りは、ボケてくると昔話の繰り返しになるから。だから嫌われるんですって。ゴメン ❢
昭和20年8月15日の【玉音放送】を聞いたのも上海の自宅でしたがこの件は8月15日に投稿します。
今日は1枚の写真から話が広がってしまい、長らくお付き合いを頂いてしまいました。感謝いたします。ありがとうございました。
では 又 ヨロピク ね!