ヒ ス ト リ ア 鎭 雄 記 は 昔 の 記 録 だ ョ !
ヒ ス ト リ ア 鎭 雄 記【 第 二 十 二 段 】
※ コレは2018年8月15日 付け ヘブログ の引用ですョ!
ア バ タ の C ち ゃ ん の 想 い は 如 何 か ナ ?
僕、良く分からないのでよろしく!
今年の シャツ は色違い!
テレビで 日本武道館 での 57回 戦没者追悼式 の中継を見たョ。
令和 になって始めての 天皇皇后両陛下 臨席の式典を感慨深く見ながら思ったネ!
戦争中 とは 天皇陛下 の祖父の時代の話だョ!
海外各地に散った 兵士達 が 最後に『天皇陛下万歳!』と叫んで命を捧げた事を決して忘れてはならないのだ!
今日は ポツダム宣言 を受け入れて 無条件降伏 を宣言した 玉音放送 の放送日を記念した ・ ・ ・
" 終 戦 記 念 日 "
で今年は74回目 になりますネ!
ワシの記憶にある 玉音放送 の内容は今考えても意味不明ですが
国会図書館 には原文が在るそうですョ!
ワシも 玉音放送 を聞いた記憶はあるネ!
ン? と閃いたので 去年の ヘブログ を見返したら 一所懸命 に書いてあったので再再掲載しようと考えたんだョ!
※ ※ ※ 2017/08/15 付け しわしわ ヘブログ より
昭和二十年八月十五日 この日放送された 玉音放送 についての思い出話。
当時ワシは、國民學校 二年生 ( 今の小学校 ニ年生 ) で、日本本土には居住して居ませんでした。
居住地は中国の上海市ヤンカパンロ ( 路 ) シンコウロウリ ( 里 ) 正しい文字は不明ですが。記憶にあるのはこの程度です。
其処の 日本人 が多数居住している地区に居ました。
我が家の2階に近所の 日本人達 が集まってNHKで 玉音放送 を聴いたのを記憶している!
雑音が多くて 何を言ってるか 大人だって分からなかったでしょう。理解できたのは 戦争は終りだ それだけだョ!
ワシは【上海市第五國民學校】に通っていました。
※ 昭和16〜21年 戦時下での 名称変更 それ以前は 尋常小学校
國語 の教科書の初めは『 アカイ アカイ アサヒ アサヒ・・・ 』でしたネ。
唱歌 の初めは、『ミンナ デ ガッコウ ウレシイナ コクミン ガッコウ イチネンセイ』不思議に憶えていますネ。
内地の人と変らないのは、「防空壕」「防空頭巾」「燈火管制」「警戒警報」「空襲警報」の言葉は使っていました。
米軍機に対する言葉ですが、実際の空爆は無かったのです。
防空壕から顔を出して空を見ていましたネ!
後になって考えれば、爆撃がある筈が無いでしょう。
バンド の先にはヨーロッパ諸国の 租界 があったのですから当然の事です。
日本の 白木屋 ( 今の東急百貨店 ) でアイスクリームを食べたナ
変な事を覚えています!
当時の 大日本帝國 はおかしかったのです。無知はいけないゾ。
何も知らない子供達に『鬼畜米英 !』なんてスローガンを唱えさせる。何と バカバカ しい話か!
愚かな指導者を持つと不幸です。どこかの国民も同じに見えます。
ワシは 終戦記念日では無く 敗戦記念日と変えるべきと考えてる。
そうしないと、戦争を語るべき人が高齢化して消えて行き、代わって知らない人に依って、終りと言う言葉を美化する真似は絶対許してはなりません。
戦争は多くの人々を犠牲にし、不幸にし、希望を奪うのです。
ワシもたった一人の 叔父 が、戦場に行く途中の上海で家に寄り顔を見せてくれただけでした。ワシの記憶はこれだけです!
フィリッピンの何とかいう島で、玉砕だったと聞かされ、後年遺骨の返還を得て、戻って来た 遺骨箱 に入っていたのは小石が1個でした。
何と言う悲しい事でしょう。
毎年否応無く思い出されるこれ等も、後 何回有るのかなァ!
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今読み返しても何の違和感も無いネ!
来年も可能なら 又、掲載しようと思います 元気で居られるかナ?
写真どころか リュック 一つ背負って 引揚船 で帰国したネ!
内地に帰ったら 引き揚げ者 と言う言葉でいじめに会ったョ!
今なら 差別問題 で取り上げられる事 間違い無いネ!
付録は当時の少年期のワシの姿を!
僅かな手持ちから 昭和19年 頃 上海神社 の 記念碑 の前にて⤵⤵⤵
上海公園 で兄 と 戦闘帽 を被り 通学 もコレです!
いずれも 父 が愛用の ライカ で撮影し内地の両親に送ったものの内 ワシの手元に残ったものですョ!
こんな思い出に浸った 8月15日でした 感慨無量!
今年も書きながら胸が熱くなる思いですョ!
いつまで続けられるかは 分からないネ!
では又、✌ よろしく ね 🎵 本日の歩数2,351歩でしたョ!