ハ ッ ピ ー " 半 寿 " で す か ?
ヒ ス ト リ ア 鎭 雄 記【 第 十 八 段 】
ア バ タ の C ち ゃ ん の 祝 辞 ❗
有 難 う ❗
お陰で 盤寿 になったがワシは 将棋 はやらないのでさしずめ
半寿 の方が分かりやすいかナァ!
年寄りは直ぐ昔の話になるから嫌だろうが 遺産 としてではないが書いて置くのじゃ! 胃 は丈夫だから 胃散 は不要じゃョ!
しわしわ ヘブログ の始めの頃に書いたのを再録してご覧に入れるので欠伸の出そうな方はパスしてネ!
始まるョ!
※ 2017/04/22【 序 段 】より再録
乳 児 期
1938年 (昭和13年)頃 多分 早稲田 辺の写真館で。
1歳写真の現物は既に無くて .JPG になった物しか無い。
当時は旧戸籍法下の戸籍では、実際の出生日や場所も違いますが、余り正確さは求められなかった様子です。
日付けは11日ずれ、場所は医療機関では無い。ついでに言えば、ワシは 帝王切開 で出産しているのに自宅です。届出は更に遅れて翌月です。
祖父母の婚姻日は不詳です。更に父方のいとこは、自分の母親の妹です。後に養子縁組しましたが。明治時代はこんな事を平気でやっていたらしいです。
実際はもっと茶色っぽく変色してましたので、調整しました。
自分の歴史を書いて行くと、記憶を辿らなくてはならないので、脳トレになるかナ?
そんな事に付き合わされちゃかなわん!という方はパスも自由なので、どうぞ気楽にして下さい。
見てくださった方には、御礼を言います。では 又 ヨロピク ね
※ 2017/05/01【 第 二 段 】より再録
幼 児 期
この写真はおそらくは、昭和13〜4年頃と思われます。
場所は早稲田近辺かと考えられますが、この間の正確な事情を知る者は最早存命では無いので分かりません。
兄の誕生は昭和9年朝鮮の京城となっていますので、当時山本家は今の ソウル に居たことが戸籍の記録に残っています。
考えてみると、戦前は朝鮮も台湾も日本の統治下でしたから、割と安直に移動していたと考えられます。而も移動は船ですよ。
それにしても、我が家はどんな方針を持っていたのでしょうか。
私が5〜6才頃には中国に渡っていますから ( 兄は学校がある為 ) 祖父母に預けて同行しなかった。まるでジプシーですナ。
写真は中国に行く前です。
3歳違いの兄は、天皇陛下と同い年ですが現在は、練馬富士見台に健在です。先日 父の命日に連絡を取ったばかりですが思った以上に元気でしたネ。良かった。
記憶も定かでなく、戦後の引き揚げに際しても、写真等持ち帰る事が出来なかったので、内地に送ってあった物の内の僅かな残りをご覧に入れます。
※ 2017/05/10【 第 四 段 】より再録
これは ” 南通 “ ではないか?昭和16〜7年頃 中国人の子供服で。
地図を見ると中国の揚子江の下流に上海市は有るが、これはごく大雑把に言えばですけど。なにしろ70年も昔の話ですから記憶も怪しいのですけど、記録に残すつもりで書きますネ。
上海は、実際は黄浦江という支流が街を横切って居る川岸の街でして、バンドと言っていた波止場の近くに 領事館 があって( どこのって日本のに決まっているでしょ ) 姉は其処で お茶汲み かなんかをやっていたと思います。
訪ねた領事館の窓から船の往来や向こう岸の建物も見た記憶があり。岸の近くに ブロードウエイ マンション という高層の建物がありましたネ。 母の髪を結う今で言う パーマ屋さんにも一緒に行きました。上海は古い言い方ですが “ ハイカラ ” だったんです。
アイスクリームを食べた記憶も白木屋か三越か定かでは無いもののデパートの食堂でしたね。
写真の ” 南通 “ は親父の仕事の関係で、上海から船に乗り揚子江を遡上して対岸にある街 南通市 の 岡野建築事務所 の裏庭で写したものと思われます。昭和16年頃か?バックにレンガを積み上げてあるのは使う建材です。
わが家は更に、コウリヤン畑の中を4〜5時間自動車に乗って ジョコウ 如 ( コウは泉に似た字 変換不能 ) 城壁に囲まれた村でしたネ。日本人はわが家だけでした。
意外な展開で作り話か?と思うかもしれませんが、当時はざらにあったんですョ。
今回もお付き合いを頂き、ありがとうございました。
次回も 又 ヨロピク ね!
※ 2017/05/20【 第 六 段 】より再録
少 年 期
上海公園にて 昭和19〜20年頃
兄と “ 上海市第五国民学校 ” 在学中。勿論日本人の学校で市内には少なくとも五校以上は有りましたネ。
徒歩で登校していた。学校で『警戒警報』で『防空壕』に入った事も有りました。しかし上海が攻撃を受ける事は無かったと思います。子供達は『空襲警報』の中空を覗いたりしていた。
緊迫感等全く無かった様に記憶しています。
いつも米軍爆撃機は高空を飛行して日本へ向っていた様で、日本軍の『高射砲』は撃っても弾が届かなかった様でした ( 大人の話 ) 。校門には守衛が、而もターバンを巻いた印度人でしたネ。
被っている帽子は戦闘帽ですョ。当時のの少年達は「大人になったら兵隊さんになって、戦争に行くんだ!」と無邪気なものでしたネ。
この近くに米軍のB24が墜落してその残骸を見に行った記憶があります。
市内中心部『四川路 ( シセンロ ) 』へは、路面電車 ( 2両編成で前が緑色の電動車で後が白色の付随車で日本人は前に乗る ) を利用したのではないかナ。映画を見たりデパート「白木屋」か?でアイスクリームを食べた記憶もあります。
フランス租界に行った記憶も、姉が日本領事館でお茶汲みをやっていた事も、領事館の窓から黄浦江対岸の景色を見た記憶も断片的に思い出します。
♫ みんなで がっこう うれしいな こくみんがっこう いちねんせい と歌ったのを、かすかに覚えていますョ。
国語の教科書は今と違い、カタカナを初めに覚えたから「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」でしたかナ。70年以上も昔の話ですョ。
戦中は上海でも『灯火管制』『警戒警報』『空襲警報』『防空壕』こんな言葉は有りました。
イヤですね年寄りは、ボケてくると昔話の繰り返しになるから。だから嫌われるんですって。ゴメン ❢
昭和20年8月15日の【玉音放送】を聞いたのも上海の自宅でしたがこの件は8月15日に投稿します。
今日は1枚の写真から話が広がってしまい、長らくお付き合いを頂いてしまいました。感謝いたします。ありがとうございました。
では 又 ヨロピク ね!
※ 2017/07/01【 第 八 段 】より再録
昭和19年頃 上海神社の記念碑の前にて
日本は神の国である。だから 日本の行く所 神 在りで、神社も当然ある訳ですネ。誰を祀ってあったかは不明。
兄も内地から転校して来た。兄との記憶は上海時代から始まりました。
【防空頭巾・警戒警報・空襲警報・防空壕・灯火管制・ゲートル・水筒・戦闘帽】こんな言葉を、今 思い返せば噴飯物ですが当時は、何の疑念もなく、水筒を携え脚絆を巻いて、何かの訓練よろしく、隊を組んで通学したものです。
警報が鳴れば下校です。途中で防空壕に入った事も、高空を米B24辺りが飛んでいるのは見ましたネ。
しかし、攻撃を受ける事は無かったですネ。
日本軍の高射砲は飛行機まで届かなかった。
当時の親父は何を考えていたのか、日本が “ 鬼畜米英 ” をやっつけると、 ” 大東亜戦争 “ を勝利すると、本気で信じていたのナ???
後日、日本人会の500名以上の引揚者を引き連れて、上海から帰国する事に成るとは想像したのだろうか???
ワシにとってのこんな歴史を記録しておきます。
古びた話で、ご退屈さま ❢
では、又 ヨロピク ね ❢
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とまァ 回顧録 まがいになったんだけど良く続いたものですョ!
もう少しは お呼び が掛かりそうにも無いので皆さん方どうぞ
宜しくお付き合いを願いますネ!
ワシの命綱は 諸兄 の手の中にあるんだから 処刑 しないでネ!
では又、✌ ヨロシク ね 🎵 本日の歩数は2,629歩でした!