ヒゲヤーマン’s Heblog

“ 健 康 寿 命 ” を延ばすも縮めるのも自己責任 シッカリ 正そう生活習慣

古 代 に 想 い を 馳 せ る ❢ 

散 策 の 68

ア バ タ の C ち ゃ ん も 行 く ョ  ❢ 

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何 を 感 服 し と る ん だ ?
スタンバイ OK? イ ザ  ❢ 

今日のマップ です 👇👇👇👇👇
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咲いていますネ ❢ ①  👇👇👇👇👇
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3月30日にアップした満開の 🌸 桜も今やスッカリ 🍀 葉桜になったナァ ❢  ② 👇👇👇👇👇
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上野國分寺跡 の敷地と案内書き ③ 👇👇👇👇👇
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目印の巨木は枝を切られてしまった ❢ ④  👇👇👇👇👇
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現在は国指定史跡の状態は高崎市の案内に依る ー引用ー
※ 奈良時代天平13年(741)、聖武天皇は国ごと(約60)に僧寺と尼寺を造ることを命じました。これが国分寺で、後に僧寺が国分寺と言われるようになりました。

当時、群馬県上野国と呼ばれており、その国分寺は今の群馬地区と前橋市との境近くに建てられました。上野国分僧寺の広さは約200メートル四方、周囲に土塀を巡らし各辺の中央に門が作られました。中央に金堂、奥に講堂があり、金堂の南西側に七重塔が建てられました。

www.city.takasaki.gunma.jp       ー参照ー

一番大きい国分寺だったそうですョ ❢ 

当時は 仏教文化建築技術を携えた大陸からの渡来人で賑わったであろうこの地。

奈良時代に文字の読める人が都から遠い上野国に居たのか?

来る度に感慨深いものが有りますョ ❢ 

それが今や歩く人はワシ一人かい  ❢ 

此処に立つと巨大な数十メートルに及ぶ柱は誰が 何処から持ってきたのか?

重機も無い時代にどうやって柱を建てたのか?

工事を賄えるだけの労働力はどうやって調達したのか?

不思議な思いは 歴史のロマン なんて言葉で済むのかなァ ❢  ⑤   👇👇👇👇👇

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発掘品から復元された七重塔の想像図と基盤上の基石配置図 ⑥   👇👇👇👇👇
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説明文 ⑦  👇👇👇👇👇 
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基盤上の教典を納める七重塔は高さは60mもあり基盤上の基石は4×4個 中央の大きい石は心柱座用 ⑧  👇👇👇👇👇
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花海棠かな? ⑨  👇👇👇👇👇
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群馬町指定重要文化財: 西国分石造薬師二体 ⑩  👇👇👇👇👇
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説明文  ⑪   👇👇👇👇👇
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今日も歩き 考えた 昔の人は偉いなあ❗

それに引き替え何と己は・・・情け無いや ❢

もう寝ますネ ❢ 

では今日のしわしわヘブログは幕を引きますョ ❢ 

今日の歩数は9,419歩でした ❢